7月の日誌
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1日 (日)
脳腫瘍かも?

 母、修学旅行の代休で学校が休み。 東海病院へCTの結果を聞きに行く。 父は期末テストで午前中のみ。 テストが終わって職員室に戻ると、母よりTEL。 「ヨウスケ、脳に腫瘍があるかもしれない。」と言って、あとは泣くばかり。 「待ってろ、すぐ帰るから。」 急いで家へ戻る。 車の中で、いやな思いがよぎる。 なぜかヨウスケのこどもの頃のビデオの1シーンが目に浮かぶ。 家ができたとき、階段のところで何か叫んでいる3才のヨウスケだ。 「あの子が脳腫瘍?ひょっとして死んでしまうのではないだろうか。」 「両親に死なれ、子にも先立たれるのか。」 父の記憶の中で、「脳腫瘍」という言葉は、1度だけ体験がある。 小学校時代仲良しだったS君が、中学生の時に「脳腫瘍」で亡くなった時だ。 脳に腫瘍ができる、それは父のイメージには死と結びついていたのだ。 家に着くと、ヨウスケはテストで早く帰り、下でラーメンをぼそぼそたべていた。 母は娘のベツドで泣いていた。 ヨウスケは結果を聞こうともしなかったようだ。 とりあえず月曜日、詳しく検査があるとヨウスケに伝える。 考えると悲しくなるが、いちばん悲しいのは本人だろう。 気をとりなおして、学校へ戻る。
2日 (月)
 2Fに上がると悲しみに襲われる。
3日 (火)
 G宅でAちゃんの誕生会。 ヨウスケ、久しぶりに元気そうにKちゃんと話す。 すべてが間違いであってほしいと願う。
5日 (木)
 半暇をとって母と2人でヨウスケを東海病院へ連れていく。 8時半~。 問書と血液検査、10時半過ぎにCTを見た。 脳の奥のほうがやや翳っている。 MRIを撮らないとわからないとのこと。 担当N先生。 ユニーへ行って、帰宅。 ヨウスケはカサを買ってくれと言ったが、そのカサが一度も使われることがない気がして悲しい。
6日 (金)
 イライラしていたのか、学校で新教育過程の打ち合せをしていて、阿呆らしくて退席してしまう。 Y医院で不正脈があると言われる。 ヨウスケの件は、「MRIをとればはっきりするでしょう。」とそっけない。
8日 (日)
脳腫瘍の宣告

 4時半~、合奏練習。 「ウエストサイド」を終え、「K点を越えて」に入ったら、校内放送で電話の呼び出し。 いつもだと聞き落としてしまうのだが、「S先生、職員室にお戻りください。」と呼んでいる。 あわてて行くと、「東海病院からだ。」と言うのでハッとする。 4時からひとりでヨウスケがMRIを撮りにいっていたのだ。 電話はN先生から。 「腫瘍がある。」とはっきり言われる。 「息子さんは自転車で来ているようなので、そのまま帰せない。 すぐ来てくれ。」 30分で行くと伝え、あとをM先生に頼み、病院へ。 5時着。 ヨウスケは待合所でゲームボーイをして待っていた。 最初は父だけ説明を受ける。 「息子さんにも伝えたほうがよい。」ということで、後からヨウスケにもN先生から病状を伝えてもらう。 受け答えはしっかりしていた。 「胚細胞腫だと、薬(化学療法)だけで治る。 まずそれをやってみる。」とのこと。 そうあってほしい。 母、帰宅後、明日以降の補欠準備等ですぐまた学校へ戻る。 夜、寝るとき2人で号泣。
9日 (月)
東海病院に入院

 2時間休みをとって母とヨウスケの入院に付き添う。 9時半病院へ。 勉強道具いっぱい持っての入院だ。 まず点滴を受ける。 はいていたジーンズと靴は持ちかえる。 父学校へ。 タ方6時半に出て病院へ寄る。 廊下をひょこひょこ歩いていた。 夕食のとき涙がこぼれそうになる。
10日 (火)
 4時ごろ病院へ。 ヨウスケはパジャマ姿。 矢田中の友達が来てくれたそうだ。 そのあと、勝川駅に放置してある自転車を取りに行く。 母はずっと付き添う。 昼から祖父母見舞い。 タ食を食べていたら、春日井高校の担任、A先生が来てくれたと、ヨウスケより電話入る。 こちらの気持ちはだいぶ落ち着いたものの、彼が二度と家に帰ってこられないのではないかと思うと、涙が止まらない。
11日 (水)
 10時すぎ病院へ。 ヨウスケは談話室で勉強!  しながらどこかのオバサンと話していた。 その人の息子も脳腫瘍と言われたが、手術しないで治ったという。  …矢田中時代の友人数人きて、昼過ぎまでトランプをしていた。
12日 (木)
化学療法開始

 母は学校に行かず、看病。 ヨウスケ、「ずっと吐き続けている。」と13時に電話入るが、どうしようもない。 6時、病院へ。 祖父、心配で来ていた。 吐き気はおさまり、元気そうだが、タ食が食べられない。 母と交替して2時間ほどいる。 k中の教頭くる。 ヨウスケは元気になるつもりだ。 8時交替、娘はタ食を済ませていた。 「兄ちゃんはもどってこられないかもしれない。」といったら、わかっているようだった。
13日 (金)
 朝2コマ空いていたので、10時まで病院へ。 ヨウスケ、グターツとして朝食食べられず。ゼリー1個だけ。 頭痛いといって、セデスをもらう。 10時になっても起き上がれない。 薬のダメージと思われる。 10時母と再交替。 y先生より、インターネットで手に入れた脳腫瘍の資料をもらう。
14日 (土)
 朝9時すぎまで病院。 タ方6時、病院に顔だけ出して、F中の吹奏楽研究会へ。 9時半ごろ帰宅すると、玄関先にG父が座り込んで待っていた。 母からの電話で入院を知り、心配で来たと言う。 1時間ぐらい話し込む。
15日 (日)
 朝病院。 ほとんど起き上がれない。 ゴロゴロしている。 9時すぎ交替。 母は昼間タクシーで春日井高校の個人面談へ。 野球部の監督さん、K先生が来てくれたようだ。 6時半~9時すぎまで付き添う。
16日 (月)
 母、朝起きてすぐ病院へ。 娘、なぜか不機嫌。 8時~9時、ヨウスケはずっと寝ていた。 化学療法終了。 6時半~9時病院。 娘はドラマを見ながら宿題。 台所で家事をしていて、涙。
17日 (火)
 朝、病院に寄ってから学校へ。 矢田中の友達が2組来ていた。 6時半病院。 いったん帰宅してから、8時半ごろか?  泊まる。 ビールがきいて、ヨウスケと一緒の時間に寝るが、すぐ起きる。 12時ごろまで廊下の片隅の喫煙コーナーで内田康夫の推理小説2冊読む。 病室のソファーに横になるが、暑いのやら寒いのやら、2時ごろまでウトウト。 悲しくて寝られない。 4時半ごろ起きてしまう。
18日 (水)
 7時半、帰宅。部活練習。昼すぎ、病院に寄ってから帰宅。タ方また病院。ヨウスケは寝ている。
19日 (木)
 朝、小雨。 2人で病院へ。 母、終業式、久しぶりに学校へ。 車で送る。 10時過ぎ~昼、また病院に行き、昼から部活。 矢田中の元担任F先生見舞い。 高校の先生と生徒2人も来たとか。 入院後、初めて元気そうな姿を見る。 束の間の幸せで終わってほしくないと切に願う。
20日 (金)
 部活夏休み初日。 朝7時半頃、ヨウスケの顔だけ見る。 8時前、学校。8時半音だしの時刻に三分の一程いなくて頭にくる。 ヨウスケ、タ方ファミコンをやっていたものの、そのあとは元気なくゴロゴロ。
21日 (土)
 矢田中の友達2人。点滴外してもらえる。割と元気にゲームをしていて安心。
22日 (日)
 朝、病院行きそびれる。 2時過ぎ、ユニーでサンドウイッチを買って病院へ。 ヨウスケふたきれ食べる。 S先生(N中時代の父同僚、ヨウスケの矢田中時代の社会の先生)見舞い。 2,3日前、息子さんのサッカーの試合を見にI中に来ていて、ヨウスケのことを伝えてあったのだ。
23日 (月)
手術決定

 昼すぎ、部活を終えて病院へ。 検査が終わったところだった。 結果はわからない。 一足先に帰宅。 3時半頃、母帰宅。 「薬は効いていない。手術することになる。8月に八事日赤病院へ転院決定。」 ここ2,3日、元気を取り戻し、「薬が劇的に効いている」という結果を待っていたのに。 なんということか。 夜、また2人で泣いてしまう。
24日 (火)
 自転車で昼病院へ。友だちたくさん来ていて、すぐ帰る。タ方2人でカレーを持っていく。 オールスターを途中まで見る。 帰り、途中のお店でビール2杯。 母、泣きそうになる。 娘、夏祭りに出掛ける。
25日 (水)
 吹奏楽コンクール。 「K点を越えて」「アバラチアン序曲」。 3回目の銀賞。 ひとり大曽根の店で大ジョッキを飲む。
30日 (月)
 明日、あの子が家へ戻ってくる。 1泊の外泊許可がでた。 「我が家での最後の日」にならないことを祈るのみ。
31日 (火)
手術前の外泊許可

 1時半、ヨウスケを迎えに。 髪の毛がだいぶ抜けた。 母だけ自転車で帰宅。 家について一休み。 CD屋へ行きたいというので、守山のマジカルステーションヘ連れていく。 ヨウスケは何か買ったようだった。 何だったのだろう。フィールドオブビューだったか。 帰りにユニーへ。 3週間ぶりの外界だ。 本屋、CD屋をうろうろする。 娘の誕生祝いのアイスケーキを買う。 4月からカメラに入ったままのフィルムを現像。 ヨウスケの入学式の写真は、家の門の前でポケットに手を突っ込んでブスッとした表情。 たった1枚しかない高校生の写真だ。 夕食はピザ。 元気に食べる。 風呂に入ったが、髪の毛が抜けるといって、頭は洗わなかった。

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