8月前半の日誌
ライン
1日 (日)
 夏休みに入って初めての休部。 洋輔は起きたものの、ソファでゴロリ。 10時前、床屋へ行くというので、送っていく。 いつものところだ。 終わって電話させ、カレー屋の前まで迎えに行く。 ボーズになった。 CDを聞いたりビデオを見たり。 タ方までの残された時間はどんどん過ぎていく。 タ食は五目寿司。 食事前から、これが「最後の晩餐」になるかもしれないと思うと涙がこぼれ、いっしょに食事をするのがつらい。 涙を見せまいと、そそくさと食べて上に上がる。 6時すぎ、3人で病院へ。 夜また2人で号泣。
2日 (月)
 夫婦とも出校。 父、起きたら目蓋がはれあがって別人のような顔。 1時半頃、学校の帰りに病院へ寄り、自転車で出なおす。 銀行で40万引き出して、古本屋にしばらくいて病院へ。 母と交替。200円で買った雑誌を見ながら、会話をするわけでもなく、ただ洋輔と一緒にいる。 2人でいると、結構落ち着く。 タ食の届くのを見て、帰宅。 夕食後、親戚中に電話をかける。 Y伯母に、「知人で脳腫瘍ながら、元気になった人がいるから悲観的になってはいけない。」と勇気づけられる。 寝ようとした時、ボート部後輩のT県議から電話。OB会でボートの試合に出ないかという誘いだったが、それどころでない事情を話す。
3日 (火)
八事日赤病院へ転院

 10時頃、病室の前に車を横付けして荷物を入れる。 病室とヨウスケの写真を撮ろうとしたら、「こんなとこ撮るの?」と言うのでやめた。 東海病院から八事まで、茶屋が坂を通れば行けるのだが、わざと家の前を通る。 我が家の見納めかもしれないと思うと、ハンドルを握りながら涙があふれてくるが、ルームミラーに写る野球帽姿のは洋輔はそんな様子はない。
 10時半ごろ日赤に着き、救急入り口で2人を降ろす。 30分以上かかって駐車場へ入れる。 迷路のような通路を通って5病棟5Fへ。 2人は検査に行っていた。 同室は他に2人。 窓際に高校生風の男の子。 不機嫌そう。 母親が付き添っている。 入り口の男性は30代後半か?  奥さんのほうから先に挨拶してきた。 モヤモヤ病の手術が明日だそうだ。
 執刀医のS先生はちらっと見ただけだが、2人には「今のうちなら腫瘍はとれるから。」と言われたそうだ。 その言葉を信じたい。
 ヨウスケ、「病室にTVがないのはかなわん。」と言う。 東海病院ではずいぶんTVのプリペイドカードを使ったはずだ。 そこで昼食後、TVを探してひとりで車を走らせる。 植田のリサイクルショツプで14型TVアンテナ付きで10794円。なんとサイフには1円しか残らなかった。 病院へ戻ると、ちょうどTV許可申請を書いているところだった。
 同病者が結構いるのでやや安心。 談話コーナーで遠藤周作の「深い河」を読んでいると、奥の病室から女性のうなり声が聞こえ、気になる。
4日 (水)
 八事墓地へ父の両親と弟、祖父母のお墓の草刈り、掃除に行く。 ビニール袋3つ分の草。 病院5時~6時。 ヨウスケは寝ていた。 兄のMさん、来るかもしれないというので、母、残る。 娘のため、松阪屋ストアで買い出し。 祖父母、娘の誕生祝いに来る。 ケーキとCD。
5日 (木)
 13時学校に電話が入って、何かあったかとびっくりしたが、「宗田理の本とバスタオル数枚持ってきてほしい」と母より。 家に戻り、タ方自転車で日赤へ。 30分かかる。 洋輔は検査のあとで、寝ていた。 しばらくいて、帰宅。 娘とカレー。 再度車で病院。 8時すぎ~9時すぎ。 相変わらず寝ている。 タ方S医師が手術手順の説明。 「右脳、左脳の隙間を少し広げて、顕微鏡下で手術する。 良性であって、全部取れれば問題ない。 ただ、血管がからんでいたりすると、取り出せない。 また、取りだす際に血管を傷つけるとたいへんなことになる。 難しい手術であるが、10年前、20年前の手術とはレベルが格段に向上している。」と言われた。 ここまで来たら、「お願いします。」と言うほかない。 母、病院に泊まる。
6日 (金)
手術の日

 5時起き。 昨日のカレーの残りをたべて娘と病院へ。 7時38分入庫。 祖父母来ていた。 ヨウスケ、頭を剃られている。 といっても、もともと毛が抜けてしまっていたので違和感はない。 8時半ごろ、自分で歩いてトイレヘ。 病人には思えないが…。  注射をうたれてウトウト。 ストレッチャーに乗せられてエレベーターに乗る直前、看護婦さんに、「ヨウスケくん!」と声をかけられ、目をあけた。 「頑張れよ」と声をかけたのに気づいただろうか。
 9時前にヨウスケがエレベーターに消えてから、長い長い1日であった。 交替で昼食、ひたすら待つ。 昼すぎ、母の兄、Mさん来る。 さらに、H、Y、Fの伯母、M氏も駆けつけてくれる。 8時間(=午後5時)の予定を過ぎてもいっこうに戻ってくる気配がない。 屋上でタバコ吸ったり、うろうろしたり。 待合室の彼方には名古屋大学のキャンパスが見える。
 手術室まで様子を見にいった母とおばあちゃんより「洋輔は手術終わって、CTを撮りに行っている。」との情報。 ほどなく「洋ちゃん、戻ってきた。」という祖母の甲高い声。 あっと言う間に集中治療室に消える。 伯母たちには引き取ってもらう。 だいぶたってから、s先生に呼ばれる。 「腫瘍は取れた。」と言って、小さなガラス容器に入った白い腫瘍を見せてくれた。 かちかちの石灰質状のものだったそうだ。 しかし「手術の際に、軽い脳梗塞を起こしている。どのような影響がでるのか、今は分からない。」  …右半身、反応がない。そして、意識が戻るのか…
 9時10分頃、娘と一旦帰宅。 母は泊まることにする。 心配だったので、22時20分~11時半、再び病院へ。 母は控え室で泣いていた。

       ~~ 集中治療室面会時間 ~~
           ①7:30~8:15
           ②11:30~13:00
           ③14:00~15:00
           ④18:00~20:00
(この時間帯はテレカに書いて入院中持ち歩いていた。)
7日 (土)
 6時起き。 娘、バレーの試合を見に春日井へ。 y医院、血圧の薬だけもらい、いろいろな悲しい思いをもって10時半頃、病院へ。 祖父母来ている。 母の顔が明るい。 呼吸器をはずし、右手も反応がでるようになったと言う。 昼すぎ、S医師の話は、だんだんよくなるとのこと。 希望が生まれる。 しかし、18時面会、何の変化もない。 呼び掛けにはうなずくようなしぐさをみせるものの、左足を絶え間なくバタバタ動かす。 別の医師の話では様子をみないとわからないとのこと。 祖父を送って7時半ごろか、帰宅。 母泊。
 「長期戦になるかも‥」と母。
8日 (日)
 朝、母からの一報。「あまりかわらない。」6時ごろから様子をみていたようだ。
集中の外から様子を窺っていたら、看護婦さんが中に入れてくれたとのこと。 ひょっとして医者たちは何か隠してないか。 このまま植物人間になってしまうのではないか。 8時、昨日のご飯の残りを妙めて朝食の準備をしていたら母、帰宅。 3人で朝食。 そのあとか、母、大声で泣く。
 ・あんなに元気だったのに、手術をうけさせてよかったのか。
 ・このままのヨウスケでもいいか。
 ・一生懸命宿題をやっていたのに…
 ・ヨーグルトを買ってと手術前日たのまれたのに、忘れて食べさせてやれなかった。
 ・仕事をやめたら医療費は払えるだろうか‥
など、悪い考えばかり。
 10時半、父自転車で日赤へ。 川名を曲がって、杁中の手前で無性に涙がでてくる。 11時到着。祖父母来ている。 母の話で悲観的になっていたが、洋輔の反応がいい。 何に感動したか忘れてしまったが、右半身が動いたのか、問い掛けに応答したのか。 とにかく涙がこぼれて仕方がない。 呼吸のマスクがとれ、タンをとってもらう時の顔がヨウスケの顔らしくなっていた。 ほおもやや赤みがさして、テープで閉じられた目も、「見える?」と言うとうなずく。 治療室から出てきてすぐ家へ電話。 娘に伝える。 母は葡萄をもってG家、H家へ出掛けていた。Eさんのもってきてくれた弁当を和室で食べる。
 14時面会、祖父母と父の3人で治療室に入っていたら、母来る。 日曜日で他の患者さんの家族もたくさん居て、「2人にしてくれ」と言われ、母だけなかに残る。 ひとりだけ、面会時間を過ぎてもずっと様子を見てTさんの本屋、サ○ナによって、隣のドコモショップでPHSの申込書をもらう。
 6時面会の前、集中治療室からうなり声が聞こえた。 「誰だろうね。」と話していたが、洋輔だった。 右手、右足が動いた!! 「洋輔、わかるかぁ?」ときくと、「うーっ」とうなり声。 術後初めて声を発した。 言っていることがわかるのだ。 涙が止まらない。 それどころか、何度も何度も、起き上がろうとする。 看護婦さんが「家族の方がみえて興奮しているのですよ。」と言う。 そっとしておこう、帰ろうと思う。 2人でサ○ナに顔を出すと、T氏から「帰るところなので送っていくよ。」と言われる。 車に自転車をつんで、家まで送ってもらう。
 娘は「夏祭りに行く」と書き置きを残し、帰ってない。 2人でボソボソタ食を食べていると、H母さん来る。 母、山形の姉にTELしていると、T父、G父来る。 みんな心配してくれているのだ。 T母のPHSをしばらく借りることにする。 2FでS、O奥さん、K、H奥さんにTEL。 Sと話していて感極まり、涙声になってしまう。 寝ようとしていたら、大阪のHからTEL。 「よい兆候だ。」と励まされる。
9日 (月)
 朝、看護婦さんに自分の名前と、春日井高校と言ったそうだ。 さっそく母に連絡。電話□でそれをきいて母、泣きだす。 11時の面会はCTを撮ったあとで、ずっと寝ていたと言うか、眠らされていた。 11時半、熱田区宮中ヘジャズフェス打ち合せのため、車を走らせる。瑞穂のH君の蕎麦屋へ。 氏も目の手術とかでたいへんだったようだが、忙しそうで会えず。 2時~4時打ち合せ。 再度病院へ。 6時からの面会も寝ていた。 S医師、3回のCTを並べて説明してくれる。
 「これより悪くはならない。」
 「視床の梗塞がどれだけ後遺症となるかは、2,3ヵ月たたないとわからない。」 学童のY母とM母(現役の看護婦と元看護婦)、心配して来てくれる。 母、Yさんに乗せてもらう。 おじいちゃんを送る。
10日 (火)
 朝クルマをサ○ナヘ入れる。 朝の面会、看護婦さんに「ウルサイ、さわるな。」といったそうだ。 「夜は暴れん坊なんですよ。」と言われる。 左手が縛られているのが気になるのか、「うーうー。」とうなって何か言おうとしている。 「お医者さんがいいよといったら、とってもらえるから。」と言うとうなづく。
 学校へ9時すぎ~11時すぎ(何をしにいったか忘れた)。k中に母を迎えに行き、一旦家へ。 クルマの中で、「東海病院にいたとき、ヨウスケが『お母さん、仕事はいいの。』と心配していた。」と言って泣く。 12時過ぎ面会。 熱があるようだ。 2時~3時の面会も相変わらずぐったり。 そっとしておこうと治療室から出るが、母はずっと中にいる。 3時すぎ帰宅。 M母娘、タ食にソーメンを持ってきてくれる。 学童のメンバーが相談して、しばらくはタ食を作って持ってきてくれることになったようだ。 有り難いことだ。 母よりTEL。「熱があってかわいそう。」と泣いている。 程なく戻ってきて、ソーメンを食べる。 ソファーで泣き崩れる。 「どこか他に悪いところがあるのではないか、仕事はどうしよう。」
 うちの教頭、N校務、Sさんは、「奥さんが仕事をどうするかは、結論をあせるな。」と言ってくれたが。 N氏、やってくる。夜中、ふとアルバムのヨウスケの写真をみてしまって、悲しくなる。
 「ヨウスケ、帰ってこい、よ一すけ、かえってこいよ一。」思わず大声を出して泣く。
11日 (水)
 入院して初めて、朝から雨。 クルマをサ○ナに入れる。 Dr.S「昨日はオトーサン、オトーサンといっていたのですよ。」 昨日は熱のため変化がなかったが、今朝も同じ。 ずっと寝ている。 寝ている時は手足のバタバタがない。 Dr.Sの呼び掛けで目をあけたが、たいした反応は示さない。 トロンとした目付きがとても気になる。 左の目が寄っている。 先生が目を調べたとき、眼球が異常に飛び出ていることに気づく。 今日もまぶたがとじられず、薄目をあけている。 昨日の母の心配、「このままだったらどうしよう。」が頭をかすめる。
 ヨウスケの隣、Nさん。意識がない。 右隣はぼけているばあさん。 その隣はヨウスケの翌日のオペの人。 入り口の中京大のセンセは術後2日目で、奥さんに付き添われて朝食をとっていた。 26日に守山で買った中古のワープロを持ち込んで仕事。 母、昼前に来る。 面会②、寝ている。 サ○ナの2Fのイタリアンレストランで2人昼食。 結構時間がかかり、戻ったら面会時間③。 熱が高く、脈も速い。 うめき声。 Mさん来てくれる。 おばあちゃん送ってダイエーに寄り、帰宅。 東海病院に通り掛かった時、ここに毎日見舞っていた時、ヨウスケはまだ元気だったことを思い出し、ハンドルを握ったまま涙する。
 帰宅して落ち込みながらドコモの申し込み書を書いていたら、M母、タ食セットを持ってきてくれる。 20時ごろ、母帰宅。 面会④は結構いろいろあったという。 右足でじいちゃんをけったとか、やっぱり「ハラヘッタ。」と言っているように聞こえるとか。 母、久しぶりにのんびり「はぐれ刑事」をTVで見ている。 父はがっかりして帰ってきたが、その後変化があったのだ。 まさしく一喜一憂。
12日 (木)
 初めてはやる気持ちを押さえて病院へ。 面会①、脈100を越える。 寝ている。 左半身、暴れる。 何度も頭のネットが外れる。
 面会②、母来る。 落ち着いて寝ている。 寝ていると左半身も落ち着いている。 左手を上げて、頭から顔をこすって胸に手をもっている動作。 目に指を突っ込むのではないかと気が気でない。
 面会③、暴れたり寝たり。 こういうのを意識不明と言うのだろうか。 リップクリームを塗ってやると、口を動かした。 唇はガサガサだ。 Dr.K、「太郎くんですか?」と言うとうなづく。 名前が違う!  がっかりしてしまう。
 「元通りにはならない。」といわれ、母、落ち込む。 30分ほど2人で付近を散歩。
 ヨウスケは手術前日は何も食べられなかったので、これで1週間、何も食べていないことになる。 夕食はY母さん。 「時間はかかるけれど、よくなるから。」と勇気づけられる。
13日 (金)
 1週間たった。 5時に起きてしまう。 東図書館へ本返却に。 家の前でG父と会う。 娘が起きる前に、2人で面会①。 2人そろって朝からいたので、あとからきたおじいちゃん、「何かあったのか。」とびっくりする。 朝のヨウスケは、脈も100ぐらいで安らかであった。 ヨウスケの顔で、目がキレイ。 昨日のクリームがきいたのか、唇もガサガサがなくなって、キレイになっていた。 ときどきうなり声。 なんだかとてもうれしくなる。
 帰ってから娘を乗せて、CD屋のマジカル、ジーンズ屋のライトオン。 どちらもやってなくてダイエーへ。 何も買わない。
 11時半クルマ出して、駐車場で5台待ち。 面会②、チューブで鼻から胃へ白湯200ml入れてもらっている。 ときどき何か言っているようにも聞こえるのだ。 「かあさん。」と言っているのでは?  半分寝ているというか、目がトロンとしている。
 面会③、2時~寝ているのか起きているのか‥  母が一生懸命話し掛けるが、反応がない。 そうしているうちに、「この子はこのまま戻らないのではないか。」という気がしてくる。 病室を出たとき、母はそんなことばかり話していた。
 9日に名前と「春日井高校」と言ったそうだが、本当だったのだろうか。 術後1週間、もっと回復していてほしい。 帰ってから、娘を朝と同じコースで連れ回す。 娘、元気ない。 ダイエーで白い靴を買う
 ヨウスケが転院した時、廊下を母親と伝い歩きの練習をしていた男の子(実は大学生?)が車椅子で退院した。 せめてヨウスケもあそこまで回復してくれないかと、切に願う。
 7時、T母、タ食を届けてくれる。 「脳の回路が混乱しているだけだから…。」と励まされる。 母、TEL。「穏やかに寝ている。」と。 雷がなっている。タクシーで帰る。
 「一喜一憂するのはやめて、長い目でみよう。」と母。
 T医師よりTELすると、「あきらめるには早すぎる。」と言ってくれる。 12時、寝ていたら、OよりTEL。
14日 (土)
 起きてすぐ、2人で病院へ。 7時着面会①。熱? 脈120。 帰宅後娘をつれて大森のユニクロヘ。 Tシャツ、バッグ、カーゴパンツを買う。 カレー食べて2人で12時すぎ、面会②。 輸血!  譜面をコンビニでコピー。 面会③、3時過ぎ。 寝ている。 寝ていると言うか昏睡状態というのか。 おばあちゃんをダイエーに送る。 食品少々買う。 G夫妻来てくれる。 ウイスキーを結構飲む。 娘はその間G家に呼ばれる。S、野球部K先生TEL。 「意識のレベルとしてはずいぶん低下している。」と母。 カラヤンのドイツレクイェムをビデオで見る。
15日 (日)
 朝面会①、雨の中を出掛ける。 7時~8時、呼吸が苦しそう。脈100を越える。 見ていて泣けて仕方がない。 「お母さん」と言ったような気がしたが、母は気づかない。
 昨日大雨で神奈川のキャンプ場で何人かが流され、行方不明だそうだ・・・
 昼面会②、12時過ぎ、サ○ナに車を入れて遅れて入る。 エレベーター3Fで見舞いに来てくれたSと乗り合わせる。 中を少しだけ覗き、Sと待合で話していると、母泣きながらでて来る。
 面会③、2時~3時、ベッドを起こしてもらう。 息が荒い。 ベッドの横にベッド式の体重計を並べ、横に移して体重を計るが、薄目をあけたまま全く気づく様子はない。 看護婦さんの「足、曲げてごらん。」の声で左足はかなり曲げる。 けれど名前を言うとかは、夢のまた夢。
 2人でサ○ナに寄る。 母、聖書物語1万円購入。 父、「もっとビートルズ」。 隣のドコモショップでPHS購入。
 帰宅すると娘、大音量でキンキのCDをかけながら感想文を書いていた。 Hさん、夕食おかずを持ってきてくれた。
 7時、母よりTEL。 「熱が出て、苦しそう。」  夜、Kさん、Yさん来てくれる。 脳外科のナースだったKさんは「梗塞がひろがっているのではないか。」と言う。 同時に、「何ヵ月もたって意識が戻ることだってある。」とも。
 いつか夜、母が「どんなになってもうれしく、ヨウスケを迎えてやろうよ。 じゃないと彼が悲しむから。」というようなことを言ったが、いつのことだったか。

< 前の日誌へ次の日誌へ >

ライン